マレーシア国王の発表では、6月7日にハッジ月の新月が観測できたので、今年のイード・アルアドハー(犠牲祭)は6月17日月曜日になりました。千葉イスラーム文化センターではイード礼拝を午前8時と午前9時の2回開催し、約500人のムスリムが参列しました。男性は3階と4階、女性と子供は2階で礼拝しました。
本日の説法の題目は、「犠牲とは覚悟すること」です。
ムスリム兄弟姉妹の皆さん、本日はイードおめでとうございます。
イードの最も重要な要素の1つがタクビール(アッラーフ・アクバル:アッラーは偉大なりの言葉)です。なぜなら人類は本来唯一神教であったけれど、いつの時代も人間はことごとく多神教化してきたからです。現在でも他の宗教では、偶像、人間、霊、動物(つまり創造物)に犠牲を捧げます。しかしムスリムは創造主アッラーのみに犠牲を捧げます。するとノンムスリムの方は聞きます。アッラーは人間の犠牲を必要としているのか?実はアッラーは何も必要としていません。では犠牲の意味は何でしょうか?
本日イード・アル・アドハー(犠牲祭)は、ナフル(犠牲)の日としても知られ、「アッラーの御前で最も偉大な日」です。イード・アル・アドハーは、預言者イブラーヒームの信仰と服従を記念するものです。彼は息子のイスマーイールを犠牲にするようアッラーに命じられました(クルアーン37章102節)ただし最終的には、人間ではなく羊の犠牲に置き換えられました(同37章107節)。つまりアッラーの命令に従うという「覚悟」が試されたと言えるのです。これはアッラーの命令に従うことで、悪い結果にはならないという信念、アッラーへの完全な信頼に基づく「計算された覚悟」です。
ムスリム兄弟姉妹の皆さん、今日は犠牲とタクワ(敬信)の日です。クルアーンの巡礼章22章37節はこう言っています。
「それら(の犠牲)の肉や血が、アッラーに達するのではありません。しかしあなた方のタクワ(敬信)が、かれに届くのです」
イード・アル=アドハーは、普遍的な「善」を達成するために犠牲を捧げることの真の意味を私たちに思い出させます。アッラーのためのサダカ(慈善)が犠牲です。例えば、アッラーのために慈善にお金を使うことは、私たちの富を減らすことにはなりません。アッラーは、それを補うことを約束しています。覚悟がない人は、富が失われていくと怖気付くだけですが、アッラーを信じる人は、より高い報酬を望み、アッラーの言葉を信頼します。クルアーン34章39節にはこうあります。「言いなさい。確かに、わたしの主(アッラー)は、かれの僕の中からかれが望む人に豊かに糧を与え、また望む人にそれを切り詰めます。かれはあなた方が施したどんなものでも、すべて返します。かれは最善の糧の供与者なのです」私たちの能力、知識、時間、財産をアッラー(最善)のために使うことで、人間社会が善くなるのです。ただし、本当に善くなるかわからない現代社会の中で、アッラーを信じて、善行をする覚悟が道を拓くのです。
私たちが犠牲を捧げるときは、タクワ(敬信)とイフサン(善良であること)の感覚をもって捧げます。真の犠牲とは、創造物(人間、もの、お金など)を崇拝する誘惑を断つこと、私たち自身の貪欲さ、現世への執着、吝嗇の気持ちを犠牲にすること、そして個人的な利益よりも集団的利益を優先して利己心を犠牲にする「覚悟」だということです。
預言者イブラーヒームの犠牲は、アッラーの呼びかけが来たとき、アッラーの命令以上に貴重なものは何もないということを、ムスリムと世界の他の人々に明らかにしています。吝嗇の心では最愛の息子をアッラーに差し出すことはできなかったはずです。私たちが毎年行なう犠牲は、アッラーのために利己心を犠牲にする覚悟を目的としています。
アッラーはすべての物事においてイフサーン(善良であること)を命じています。善良な心でサダカ(慈善)をしましょう。そして預言者のメッセージは、人間、動物、植物、環境、そして地球上のすべてのものとの関わりにおいて善良を実践することです。バヒールつまり吝嗇にならないこと、全ての慈善はサダカであり、私たちの能力、知識、時間、財産をアッラー(平和、真理、公正、寛大、豊かさ、愛情、親切、最善など)の道において使うこと、これが私たちの覚悟なのです。そうすることで、人間社会が善くなるのです。
またムスリム諸国では、牛、羊、やぎ、ラクダなどを屠畜するとき、通常は大勢の人が集まって、集団で屠畜をします。もしくはその現場を目撃します。犠牲祭という名があるように「祭り」というのは、共同体の絆を強化する役割があります。大勢の人の目の前で動物が屠畜されることは、通常はありません。スーパーなどで売っている冷凍の肉を見ても、ほとんど何も感じません。だから生きている動物が目の前で屠畜される心理的なインパクトは大きいものがあります。大量の血が流れ出るからです。確かにそれを残酷に思う人もいます。しかし人間が肉を食べる時には、見えないところで実は大量の血が流れているのです。たとえベジタリアンであっても、植物の命をいただいていることに変わりはありません(そもそも人間も動物も植物も本来はアッラーのものです。アッラーが創造したからであり。人間は何も創造していません。真の所有者であるアッラーが特定の動物を食することを認めているので、人間はベジタリアンである必要性はありません)つまり、私たち自らが屠畜の現場を目撃することで、本当の命をいただいているという創造主アッラーへの感謝の心が強化されるのです。