CICCでは素朴な疑問から、複雑な質問まで、皆様からの貴重なご意見をメールや面談にて承っております。

今回はMさんからの質問をご紹介します。

「私は因果を無視した神を信仰するべきではないと考えています。因果は永遠に続いているんですよ。そうしなければまず原因がなく、結果もありませんから。私はキリスト教を信じていました。しかし、神の存在を確かめられないことや、当時私が自殺を図るほど精神的に病んでいたこと、家庭不和、世の中の一つひとつの現象等をキリスト教では解決できないのだ、逆にキリスト教を信仰していれば不幸になってしまう、と道理の通った日蓮正宗の話を聞いて理解しました。なぜ人生に幸不幸が起きてくるのか、イスラム教ではどう捉えているのでしょうか?また、不幸が起きてきた時にはどうしたらいいのでしょうか?食事制限や礼拝の回数の理由、など聞きたいことはたくさんありますが、一番は神の存在について納得できる説明が欲しいと思っています。」

以下、回答です。

Mさんはキリスト教徒だったのですね。Mさんには真の神への信仰に戻ってきてほしいです。私は人の心の中までわかりませんが、Mさんの目や仕草を見たときに、神を信じているのではないかと感じました。おそらくキリスト教から離れた理由は、家庭不和が原因として大きいようです。自殺を図るほど精神的に病んでいた時も、キリスト教では救われなかった。だから神などいないと信じるようになった、ということでしょうか。

イスラームの教えを説明する前に、アッラーからMさんに真理を理解する力が与えられますようお祈りいたします🤲 まずは人生の苦難があることについて、人生の苦難があることは神がいない証拠になりません。クルアーン7章168節にこう記されています。「われら(アッラー)はかれら(人びと)を、地上で(多くの)集団に散り散りにしました。かれらの中、ある人びとは正しい人びとで、ある人びとはそうではありませんでした。かれらが(アッラーに)戻って来るかも知れないと思い、われらは順境と逆境でかれらを試みました。」(7:168)つまり人生には順境も逆境もあり、それらは各人に課された「試練」だということです。そして個人の所与の条件が異なるように、課せられた試練も各人で異なります。お金持ちにはお金持ちの試練があり、貧しい人には貧しい人の試練があります。ではなぜ神は人間に試練を課すのか?それは、人間をアッラーに戻って来させるためです。人間がアッラーのしもべであり、生かされていること(自分が弱いこと)を意識させるためです。来世での天国に向けて更なる善行をさせるためです。もし人生が順境だけであれば、人間はアッラーに感謝することを忘れます。自分が神だと自己中心的になり、謙虚さがなくなるかもしれません。例えば、祈っても祈りが成就しないから神はいないという人がいます。しかしこれは発想が逆です。もし人間が祈ることが全て叶ったら、神が人間の願うことを全て聞く「しもべ」となってしまいます。祈っても、その祈りを受け入れるか否かは、主である神が決めるのです。人間ではありません。人間は神のしもべだからです。そうすることで謙虚さが生まれます。さらには人間が受ける災害や病気による苦痛によって、アッラーはその人の罪を消すという預言者の伝承もあります。「アッラーが誰かに良いことをしたいと願うならば、試練でその人を苦しめる」(アル・ブハーリーの伝承)。「信者に起こる全てのことは、信者の益となるように起こる。また、悪いことが起きても、その時は忍耐すれば、アッラーはその忍耐に報いるであろう」(アル・ブハーリー、ムスリムの伝承)ムスリムは良い時も悪い時もアルハムドゥリッラー(アッラーへの感謝)の精神でいることの大切さが教えられているのです。

次に神の存在についての説明をしましょう。納得できるかはMさんの心に聞いてください。

神に原因がないのは、神に原因があれば、原因が永遠に無限後退してしまい、結果が永遠に生じないからです。結果はすでに目に見えてあります。宇宙でも人間でも、これらは結果です。物理学ではビッグバンが宇宙の始まりと説明しますが、ビッグバンを引き起こした1点にも、エネルギーがあると言われているので、その原因を見つける必要があります。どこまで遡るかは不明ですが、いずれにしても結果があるので、無限後退しない原因がないと結果は生じません。この無限後退しない原因こそアッラーなのです。アッラーに原因がなければならないというのは人間側の勝手な憶測です。神の言葉ではありません。宇宙を創っていない人間が宇宙の真理を自分の頭だけで考えるには限界があります。壁の裏に何があるかも人間には見えません。その程度の能力しかないのです。Mさんは「因果は永遠に続いている」とお考えですが、そもそも最初のその「因果」自体の原因は何か?という疑問が残ります。結局は、無限後退しない原因がない限り、結果は説明ができないのです。Mさんの仮説は、因果サークル内だけの発想です。内があれば外があります。そして因果サークルの外にいるのがアッラーなのです。アッラーには原因がないからアッラーなのです。それがアッラーの定義なのです。アッラーの言葉であるクルアーンによれば、アッラーは別名「始まり」であり「終わり」だからです。これ以上原因が遡らない究極の原因なのです(だからアッラーには始まりがない)。一方、アッラー以外は全て創造物なので因果に影響されています。

このような説明は人間の憶測ではなく、唯一の創造主であり神であるアッラー自身が人間に教えたのです。因果サークルの外にいるアッラーから人間に言葉が届いたのです。それがクルアーンです。クルアーンの中でアッラーは人間にアッラーのことを教えています。

「言いなさい、かれアッラーは、唯一な方。 アッラーは永遠で、産むこともなければ、産んでもらったわけでもない。かれに対等なものは、何もないのです。」(112章1-4節)

アッラーこそはかれの他に神はなく、かれは永生にして(全存在を)扶養する方です。眠気も睡眠もかれをとらえることはありません。諸天にあるものや、地にあるものは(すべて)かれのものです。かれの許しなく、誰がかれの御元で執り成すことができるでしょうか。かれは、かれら(人びと)のこれまでとこれからご存知なのです。そしてかれの御心にかなったこと以外、かれの知識からかれらが得ることは何もありません。かれの玉座は諸天と地に果てしなく広がりました。またそれら(天と地)を護持することで、かれが疲れることはありません。誠にアッラーは至高で偉力大なのです。」(2章255節)

神はいないと断言するには、神がいる証拠を全て消去しないと、神がいないと断言できません。なぜなら神がいる可能性を残してしまうからです。つまり神の言葉があるということは神がいる証拠になっているということです。ムスリムはクルアーンは神の言葉だと言います。神の言葉であると信じる科学的証拠はCICCでお話ししました。もし神がいないと断言するなら、クルアーンが神の言葉でないと証明しないと神がいる可能性が残ります。なのでクルアーンが神の言葉でない客観的な証拠を見つけてみてください。それができなければ、神がいることを否定できないということです。

長文になったので、食事制限や礼拝の回数の理由については後日にしましょう。人生はいつでもやり直しができます。神を信じても救われなかったという経験をされたと思います。自殺を考えるほどならば相当に辛かったと思います。これは間違った神を信じていたからと考えられます。アッラーを誠実に信じてみたら、きっと良いことがあるでしょう。もちろんアッラーのみがご存知ですが。Mさんにアッラーからの導きがありますように🤲🤲🤲