コメント1「進化論など、色んな論理がありますが、結局のところ、アカデミックな教育も確たる根拠が存在するものではありません。わたしは動物が時間の経過の中で環境に順応して多少進化する事はあると思います、しかし猿が人になるほどの種の変化はあり得ないと考えます。猿は何億年経ってもおそらく猿のままでしょう。」
👉 おおよそ同感です。「進化」ではなく変化することはあります。ガラパゴス諸島でダーウィンが観察した鳥のクチバシの形状のように。もし「進化」の定義が「ある種が別の種になること」を意味するなら、進化を証明できない点を指摘することができます。例えば、現在、猿と人間(ヒト)はいます。でも猿人間はいません。猿人間の方が猿よりも進化しているはずなのに、進化前の猿が生存していて、進化後の猿人間が絶滅していることは、あきらかに矛盾しています。猿人間の方が猿よりも環境適応できていないのはおかしいですね。
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コメント2「神に対し犯した罪を人間には自分であがなう事はできない。それ故に、主はそのひとり子、イエス・キリストに十字架を負わせ、人間の罪の罰の支払いを十字架上でイエスが引き受けました。主は、イエス・キリストを自分の救い主と認める者を「義」とするとお決めになりました。」
👉 この点はイスラームの教えと合わないようです。「主はそのひとり子、イエス・キリスト」と言われますが、これは一体何を意味しているのでしょうか?創造主がその子イエス・キリストを「産んだ」という意味でしょうか?産むというのは性交渉の結果生じる現象です。キリスト教徒の方は、創造主が性交渉をしたと信じるのでしょうか?これまで聞いた中で、創造主が性交渉をしたと言ったキリスト教徒の方は1人だけでした。もし肉体をもつ本当の人間としてイエスを主のひとり子とみなすなら、これは主への冒涜に他なりません。では全知全能の創造主がイエスを養子としたのでしょうか?例えば、あなたに金魚のペットがいるとします。そのペットを「ひとり子」と呼ぶとします。なぜならとても可愛がっていて特別な存在だと感じているからです。でも結局、あなたは人間で、ひとり子は金魚です。人間は金魚ではないし、金魚になれません。人間は創造主アッラーではないし、人間は創造主になれません。だからクルアーンではアッラーに子がいると主張する人に対して注意しています。「またかれら(ユダヤ教徒、キリスト教徒、メッカの多神教徒たち)は言います。慈悲深き方は、子をもうけたと。本当にあなた方は、とんでもないことを言いました。諸天は引き裂かれ、大地は割れて、山々は崩れ落ちるほどのことです。(なぜなら)それはかれらが、慈悲深き方(アッラー)に対して、子があると言ったからです。慈悲深きお方が、子を持つことはありえません。」(19章88-92節)「またそれ(啓典)は、アッラーは子を持ったと言う人たちに警告を与えます。かれらはそれに関する知識を持たず、またかれらの先祖にもありませんでした。」(18章4-5節)「ユダヤ教徒はウザイルをアッラーの子であると言い、キリスト教徒はマスィーフ(イエス)をアッラーの子であると言います。これはかれらが口先で言うことであり、以前の非信者の言葉をまねているだけです。」(9章30節)イスラームの教えにおいて創造主アッラーは全知全能です。無限で永遠です。そして「子を持つ」というのは有限で自存できない創造物の属性です。人間は子を持ちます。なぜなら必要だからです。人間はいつか死ぬので子孫を残さないといけないからです。子孫が私たちの遺伝子を引き継ぐので、生物学的な本能として子を必要としています。しかし全知全能の創造主アッラーは死ぬことはありません。生物学的に生存しなければならない必要もありません。人間が子を持つのは老後に支えてくれる人間が必要だからかもしれません。創造主アッラーは歳を取りません。だからアッラーに子がいるというのは、かれの本当の力を過小評価しているという意味でも冒涜に値します。もし創造主がイエスを通じて人間に言葉を伝えたいなら、人間の預言者・使徒としてのイエスで十分です。神もしくは創造主が人間になる必要はありません。例えば、人間はコミュニケーションするために電話を開発しました。でもコミュニケーションしたいからといって、人間が電話になる必要はないのです。
また「人間の罪の罰の支払いを十字架上でイエスが引き受けました」という点もイスラームの教えと会いません。ある人が別の人の罪を背負うことはあり得ません。普通の感覚では、あなたが殺人を犯していないのに、突然警察がきてあなたを殺人罪で逮捕したらおかしいでしょう。クルアーン(6章164節)には「言いなさい。わたしがアッラー以外に主を求めるでしょうか。かれはすべての主なのに。各人は自らの稼ぐことだけに責任を負うのであって、他人の重荷は負いません」と記されています。自分で犯した罪は自分で償わなければならないのです。また、もしイエスが人間の罪を全部引き受けるなら、イエス以外の人間にとって神の存在意義とは何でしょうか?キリスト教神学が専門のイギリスのジョン・ヒック教授は「西洋のキリスト教の発展における伝統的救済観の根本的欠陥は、そこに神の許しの入る余地がないことである」と言いました。
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コメント3「イエスを「神のひとり子」と表現していますが、イエスは正確には「神の言」とあります。新約聖書のヨハネによる福音書一章は、旧約聖書の「創世記よりも前」にさかのぼり、イエスの事を「神の言」とあらわしていると思います。つまりイエスは創造主が性交渉をしてえた子どもではなく、もともと創造主の意志と共におられた「神の言」という意味での「ひとり子」なのだと思います。」
回答👉 では「ひとり子」というのは誤解を招きやすいので、イエスを神の言と呼ぶことをお勧めします。クルアーン(コーラン)もイエスを「アッラーの言葉」と言っています。「天使たちが言いました。マルヤム(マリア)よ、誠にアッラーはあなた(マルヤム)にかれの言葉(イエス)の吉報を与えます。その名はマスィーフ・イーサー(イエス)で、マルヤムの子です。(イエスは)現世でも来世でも栄誉を得て(アッラーの)側近のひとりとなるでしょう。かれは揺りかごの中でも、成人してからも人びとに語りかける正しい者の1人なのです。かの女は言いました。わたし(マルヤム)の主よ、どうしてわたしに子ができるでしょうか。誰もわたしに触れたことがないのに。かれ(天使)は言いました。このようにアッラーは御心にかなうものを創ります。かれが万事を定めるとき、有れと言えば即ち有るのです。」(3章45節)「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)よ、信仰で行き過ぎてはいけません。またアッラーについて真実以外を語ってはいけません。マルヤムの子マスィーフ・イーサー(イエス)は、ただアッラーの使徒です。そしてマルヤムに授けられた言葉と魂は、かれからのものです。だから、アッラーとその使徒たちを信じなさい。三位(一体)などと言ってはなりません。言わないことがあなた方のためです。アッラーのみが唯―の神なのです。かれは、子の有無といったことからは、超越しています。天にあり地にあるすべてはアッラーのもので、アッラーは保護者として十分なのです。」(4章171節)
さてイスラームでは、人間イエスをアッラーの使徒として認めています。しかしキリスト教徒の方はムハンマドを神の使徒として認めていません。理由は不明です。ムハンマドについては、たくさんのキリスト教徒の学者が評価していますので、一部ご紹介します。20世紀のアメリカの天文物理学者マイケル・H・ハート博士はその著書『歴史を創った100人』(1978年)のランキングにおいて、ムハンマドをナンバー1にしました。キリスト教徒が多数のアメリカにおいて、ムハンマドを一番高く評価した理由は傾聴に値します。それはムハンマドが偉大な宗教的リーダーと同時に、優れた政治的リーダーだったという理由でした。そして、その影響はムハンマドの死後、今日まで全く衰えることなく続いているのです。確かにイエスやブッダのように、歴史上偉大な宗教的リーダーは存在しました。しかし、彼らを政治的リーダーとして評価する歴史家はいません。一方、日本にも戦国武将たちなど優秀な政治的リーダーがいました。でも、彼らを偉大な世界の宗教的リーダーとして評価する歴史家はいないのです。ノーベル文学賞を受賞した20世紀のイギリスの文学者ジョージ・バーナード・ショーはムハンマドを「人類の救世主」と評価しています。「私はムハンマドの宗教を、その素晴らしい生命力から常に高く評価している。それは、どの時代にもアピールできるような、変化に同化する能力を持っていると思われる唯一の宗教である。私は彼(ムハンマド)という素晴らしい人物を研究してきましたが、私の考えでは、彼は反キリストであるどころか、人類の救世主と呼ばれるべきである」「私は、彼のような人物が現代世界のリーダーとなれば、現代世界が必要としている平和と幸福をもたらす方法で、その問題を解決することに成功すると信じている。私はムハンマドの信仰について、今日のヨーロッパで受け入れられ始めているように、明日のヨーロッパでも受け入れられるだろうと予言してきた」「ムハンマドは、この地球上に足を踏み入れた人物の中で最も注目に値する人物である。宗教を説き、国家を建国し、国を作り、道徳的規範を定め、数々の社会的・政治的改革を行ない、自らの教えを実践・表現するための強力でダイナミックな社会を構築し、人間の思考と行動の世界を未来永劫にわたって完全に変革したのである」(THE GENUINE ISLAM, Singapore, Vol.1, No.8, 1936) 。19世紀イギリスの歴史家で元エディンバラ大学の学長トーマス・カーライルは『英雄崇拝論』 59ページで次のように言っています。「しかし、マホメットは幼い頃から思慮深い人だと言われていました。彼の仲間は彼をアル・アミン(誠実な人)と呼んだ。彼は真実と誠実な人で、行動も言動も考えも真実でした。アラブ人たちによると、彼は常に何かを意味していました。話すべきことがないときは黙っていて、話すときは適切で、賢く、誠実で、常に問題に光を当てていたのです。これこそが、話す価値のある唯一のスピーチなのです。私たちは、彼が人生を通じて、完全に堅実で、兄弟愛に満ちた、本物の男であるとみなされていたことに気づくのです」とあります。18-19世紀フランスの歴史家で政治家のアルフォンス・ラマルティーヌはムハンマドを「天才」と言いました。「彼(ムハンマド)は、偉大な計画の構想と実行において、自分以外の道具を持たず、砂漠の片隅に住む一握りの人間以外の援助を受けませんでした。イスラームはその出現から2世紀も経たないうちにアラビア全土を支配し、神の名のもとにペルシャ、ホラーサーン、トランスマニア、西インド、シリア、エジプト、アビシニア、北アフリカの既知の地域、地中海の多くの島々、スペイン、ガリアの一部を征服しました。この人物は、軍隊、法律、帝国、民族、王朝を動かしただけでなく、当時人が住んでいた世界の3分の1の地域の何百万人もの人々を動かし、さらには、神、宗教、思想、信念、魂をも動かしたのです。計画の素晴らしさ、手段の小ささ、結果の広大さが、人間の天才の3つの尺度であるとすれば、人間の偉大さを測るあらゆる基準について、彼より偉大な人間はいるのだろうか?」 (Alfonso de Lamartine, HISTOIRE DE LA TURQUIE, Paris, 1854, Vol.II, pp.276-277)。神の使徒である人物は、神の言葉を体現する人類のお手本(模範)でなくてはいけないでしょう。ムハンマドは異教徒も認める人類の模範であり、異教徒によっても尊敬されています。だから神の使徒としての条件を十分満たしているのではないでしょうか。
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コメント4「コーランについてはまだ勉強した事はないです。」
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