本日は、2年前にエジプトとアメリカへの留学中にイスラームに入信した、26歳の日本人ムスリム青年が訪問してくれました。彼は、キリスト教を知るために英語を、仏教を知るためにミャンマー語を、そしてイスラームを知るためにアラビア語を学んだそうです。そして、イスラームの意味が「服従すること」であると知り、確信に至ったと話してくれました。以下はその概略です。
イスラームおける「服従」と仏教における「無我」:欲望への異なるアプローチ
人間は欲望を持つ存在である。食べたい、愛されたい、認められたい、成功したい、豊かになりたい―こうした欲望は、人間の生活を動かす力である。しかし、欲望に執着し、それに支配されるなら、怒り、嫉妬、貪欲、恐怖、争い、そして苦しみが生じる。こうした人間の欲望に対して、仏教とイスラームは異なる道を示している。
1.仏教における「無我」
仏教の「無我」とは、固定的で独立した永遠不変の「我(私・自己)」が存在するという考えを否定するものである。仏教では、人間を含むあらゆる存在は、さまざまな条件や関係によって成立し、変化していくと考える。
ここで重要なのは、「無我」が単純に「自分は存在しない」と言っているわけではないことである。むしろ、「私」というものを固定的な実体として捉え、それに執着することが苦しみにつながると考える。
例えば、「私はもっと評価されなければならない」「私は他人より優れていなければならない」「これは私のものだ」「私はこうでなければならない」といった思いである。この「私」への執着が強くなると、欲望、怒り、嫉妬、恐怖などが生じる。他人が自分より成功すれば嫉妬し、自分の立場が脅かされれば恐怖を感じる。
東京大学大学院人文社会系研究科准教授(2022年時点)の仏教学者・高橋晃一氏も、仏教における「我」を経験や行為の主体としての「自我」に相当するものと説明し、「自我というものは、欲求のもと」であると指摘している。この意味で無我とは、自我(私)への執着を手放すことで、苦しみの根を弱めようとする考え方だといえる。引用元(東京大学ヒューマニティーズセンター第64回オープンセミナー「無我と慈悲―唯識思想の観点から―」https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/events/z2010_00031.html?utm_source=chatgpt.com)
2.イスラームにおける「服従」
これに対してイスラームでは、「私」という自己を消滅させることをめざさない。人間には人格、意思、欲望、そして責任が与えられていると考える。そのうえで重要になるのが「服従」である。そしてイスラームとは「服従すること」を意味する。
服従とは、何かに従うことである。イスラームにおいて人間は、自分自身や自分の欲望を絶対的な基準とするのではなく、自分を創造したアッラーの意志に従わせて生きる。
したがって、イスラームは欲望そのものを悪とし、それをすべて消し去ろうとはしない。問題は欲望を持つことではなく、欲望が人間の主人になることである。例えば、啓典クルアーンには「あなたは自分の妄欲を神(イラーハ)とする人を見ましたか」(25:43)とある。人間の欲望を正しい位置に置き、それをアッラーの意志によって律することが求められる。
例えば、金銭を欲すること自体は悪ではない。ハラール(合法)な方法で財産を得て家族を養い、貧しい人を助けるなら、その欲望は善い行為につながり得る。しかし、金銭欲に支配され、不正や他人の権利侵害に至れば、その欲望は正しい秩序を失っている。
同じことは、食欲、性欲、名誉欲、成功への欲望にも当てはまる。イスラームはそれらをすべてなくせとは教えない。欲望を認めながらも、それを許される範囲に置き、より高い目的へと導くのである。
3.両者の共通点
このように見ると、仏教とイスラームには重要な共通点がある。
それは、人間が自分の欲望に無条件に従うことを、人間の理想とはしないという点である。
仏教では、「私」という固定的な自己への執着を手放すことによって、欲望や感情への執着から離れ、苦しみを減らそうとする。
イスラームでは、自分の欲望を絶対的な基準とせず、人間を創造した創造主アッラーへの服従によって欲望を律する。
つまり、両者とも「自分が欲しいから、それに従えばよい」という生き方を否定し、自己中心的な欲望から人間を解放しようとする点で接点を持っている。
4.両者の相違点
しかし、その解決の方向は大きく異なる。
仏教では、「我」への執着そのものを手放す方向へ進む。固定的で独立した自己への執着を解体し、欲望や感情もまた条件によって生じ、変化するものとして捉えることで、苦しみから離れていこうとする。
一方、イスラームでは、自己そのものを否定しない。人生の苦しみを乗り越えるべき「試練」として捉える。人間は創造主アッラーによって創られた人格的存在であり、意思と責任を持つ。その人間が、自分の欲望を絶対化するのではなく、創造主であるアッラーの意志に従うのである。
したがって、両者の違いは、単に「欲望を抑えるか、抑えないか」という問題ではない。より根本的には、「自己と欲望を最終的にどう位置づけるのか」という問題である。
仏教は「我」への執着を手放すことによって苦しみから離れる道を示す。イスラームは、自己と欲望を持つ人間が、それらを創造主アッラーとの関係の中に正しく位置づけ、アッラーへの服従によって生きる道を示すのである。
さらに、イスラームには、仏教との違いを考えるうえでもう一つ重要な特徴がある。それは、人間の欲望や願いを、来世の天国という最終的な目的へと向けることである。
イスラームでは、人間がこの世で持つ欲望を単に抑制するだけではない。現世での行為そのものを、来世におけるアッラーからの報奨と結びつける。たとえば、財産を得たいという欲望も、ハラールな方法で働き、家族を養い、貧しい人々に施すなら、単なる物質的欲望ではなく、アッラーに認められる善行となり得る。食べること、結婚すること、家族を大切にすること、仕事に励むことさえ、正しい意図を持って行えば、来世の報奨につながる。
つまりイスラームでは、現世の欲望を否定するのではなく、それを来世の天国という、より高く永続的な目的へと昇華させるのである。
もちろん、日本の仏教には来世や輪廻を説く伝統があり、すべての仏教徒が現世だけを考えているわけではない。しかし、現代日本の日常生活において、人々が互いに語り合う関心事を考えると、健康、仕事、家族、食事、趣味、旅行、レクリエーションなど、現世に関する事柄が中心になりやすい。日常会話の中で、「死後の世界でどう生きるか」「天国に入るために今何をすべきか」という問いはほとんど語られない。
これに対してイスラームでは、来世(アーヒラ)の天国(ジャンナ)は信仰と人生観の中心に位置する。人間は現世だけのために存在するのではなく、死後の永遠の生を見据えて、この世で何を選び、どのように生きるかが問われる。
この意味で、イスラームの「服従」は単なる欲望の抑制ではない。現世に向かう人間の欲望を、アッラーへの服従を通して、来世の天国という永続的な目的へ方向づけることでもある。
したがって、仏教とイスラームは、自己中心的な欲望に支配されない生き方を求めるという点では共通している。しかし、その先にある方向性は異なる。仏教は「我」への執着を手放し、欲望への執着から離れる方向へ進む。一方、イスラームは自己と欲望を否定せず、それらをアッラーへの服従の中に位置づけ、現世での欲望や行為を来世の天国という永続的な目的へと結びつけるのである。ここに、「欲望を手放す」という方向と、「欲望を正しく方向づけ、天国へつなげる」という方向の違いを見ることができるのである。

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