本日は2年前にエジプトとアメリカ留学中にイスラームに入信した日本人ムスリム改宗者(若干26歳)の訪問があり、イスラームと仏教の本質についての意見交換をしました。彼はキリスト教を知るために英語を学び、仏教を知るためにミャンマー語を学び、イスラームを知るためにアラビア語を学んだと言います。そして、イスラームの意味が「服従すること」と知って、確信に至ったそうです。以下、彼との会話を通じて気がついた内容を綴ります。

人間は自分をなくすために生きるのか?

人間は「私は何者なのか」「なぜ私は生きているのか」という問いを抱えながら生きている。この問いに対して、イスラームと仏教は、ともに人間の「自我」や欲望に対して深い洞察を示している。しかし、その方向性は大きく異なる。仏教では「無我」が重要な教えとして説かれるのに対し、イスラームでは「アッラーへの服従」が人生の中心に置かれる。この違いを理解することは、両宗教における「人生の意味」を理解するうえで非常に重要である。

仏教における「無我」とは、一般に、人間の中に永遠に変化しない独立した「固定的な自己」(アートマン:真我)が存在するという考えを否定するものである。私たちは身体、感情、認識、意志、意識など、さまざまな要素によって成り立っており、それらは絶えず変化している。そのため、「これが永遠不変の私である」と執着することが苦しみを生み出すと考える。ここでいうアートマン(ātman)は、インド思想、とくにウパニシャッド哲学などで説かれる「永遠不変の自己」を指す。仏教はこのようなアートマンを否定するため、「無我(アナートマンanātman)」と表現される。

仏教では、この「私(固定された自己)」という意識への執着を弱めることが、苦しみから解放される道につながると信じる。欲望や執着を手放し、「自分」を絶対的な中心に置かないことによって、苦しみから離れ、悟りへと向かうのである。

しかし、イスラームの観点から見ると、ここには非常に大きな違いが見えてくる。イスラームでは、人間は偶然に存在しているのではない。人間はアッラーによって創造された存在であり、人生には明確な目的が与えられていると信じる。クルアーンには、「ジンと人間をつくったのは、わたし(アッラー)に仕えさせるため」(51章56節)とある。

したがってイスラームにおいて、人間の問題は「自己が存在すること」そのものではない。問題なのは、自己が創造主アッラーから独立した絶対的な存在であるかのように振る舞い、自分の欲望を人生の最高の基準としてしまうことである。

イスラームでは、人間の「自我(nafs)」を消滅させる(滅私させる)のではなく、それを正しく導くことが求められる。怒り、欲望、愛情、 野望、財産を求める気持ち、家族を愛する心など、人間に与えられたさまざまな性質そのものが悪なのではない。それらをアッラーの命令に従って正しく使うことが重要なのである。自己を神の位置に置かず、被造物・しもべとして正しい位置に置く。

例えば、財産を持つこと自体が悪いのではない。財産を独占し、他者を苦しめることが問題である。欲望を持つこと自体が悪いのではない。それを許された(ハラールな)方法で満たすことが求められる。怒りを感じること自体が罪なのではなく、怒りに支配されて不正を行うことが問題なのである。「強者とは、力で人を倒す者ではない。本当の強者とは、怒りの際に自分自身を制御できる者である」(Sahih al-Bukhari 6114、Sahih Muslim 2609)とハディースある。

この意味で、イスラームにおける「服従」は「無我」とは異なる。イスラームでは、「私は何者でもない」と考えるのではなく、「私はアッラーによって創造された人間であり、アッラーのしもべである」と認識する。つまり、自己を否定するのではなく、自己の位置を正しく理解するのである。イスラームにおける「服従」とは、自分の意思を完全に失うことでもない。むしろ、人間に与えられた自由意思を用いて、「自分の欲望」ではなく「創造主アッラーの命令」を選択することである。

その意味で、イスラームの人生観では、「自我をなくす(無我になる)」のではなく「自我をアッラーに従わせる(服従する)」ことが重要になる。ここには、人間の人生に対する非常に積極的な意味がある。人間には選択がある。怒りを抑えることもできる。人を赦すこともできる。貧しい人に財産を分け与えることもできる。困難の中でも忍耐することができる。真実を語ることも、嘘をつくこともできる。もし「自己」を完全に消してしまえば、この選択の意味も失われてしまう。しかしイスラームでは、まさにこの「選択」こそが人生の試練となる。

したがって、イスラームでは、「自我を消す」のではなく、「自我を浄化する」ことが重要なのである。クルアーンは、「それ(魂)を清める者は確かに成功し、それを汚す者は滅びます」(91章9-10節)と述べている。

ここに、イスラームと仏教の大きな違いを見ることができる。仏教では「固定的な自己への執着を手放す」ことが苦しみからの解放につながる。一方、イスラームでは「自己を創造主との正しい関係に置く」ことによって、人間は本来の目的を果たす。

仏教では、執着から離れることが重要である。イスラームでは、欲望をアッラーの命令に従わせることが重要である。

したがって、両者には共通点もある。どちらも「自分の欲望の奴隷になること」を肯定してはいない。怒り、欲望、執着、自己中心性に支配されることから人間を解放しようとする。しかし、その先にある世界観は異なる。仏教が「執着を手放すこと」に重点を置くのに対し、イスラームは「アッラーとの関係を確立すること」に重点を置く。

イスラームにおいて、人間は消えるために生きるのではない

愛するために生き、家族を守るために生き、善を行うために生き、社会に貢献するために生き、そして何よりも、創造主であるアッラーを崇拝するために生きる。だからこそ、アッラーへの服従は人生の意味を奪うものではない。むしろ、人生に目的と方向を与える

「私は何をしたいのか」だけを人生の基準にするのではなく、「アッラーは私に何を望まれているのか」と問いながら生きる。そこでは「私(自我)」は消滅しない。「私」はむしろ、自分が誰によって創造され、何のために存在しているのかを知ることで、本当の生きる(存在する)意味(位置)を得るのである。

したがって、イスラームにおける服従とは「無我」ではない。それは「自己否定」でもない。それは、自分を絶対的な中心から降ろし、アッラーを人生の中心に置くことである。自分をなくすのではない。自分を正しい場所に置く。これこそが、イスラームにおける「アッラーへの服従」の本質の一つであり、人間が自分の人生を意味あるものとして生きるための道なのである。