クルアーン4章3節における「一夫多妻婚」の理解〜伝統的解釈と現代的解釈をめぐって

イスラームについて最もよく聞かれる質問の1つとして、なぜ「一夫多妻婚」を認めているのか?という質問です。クルアーン4章3節(アン=ニサー章)は、イスラームにおける一夫多妻婚(polygyny)を考える上で、最も重要な節の一つです。

もしあなた方が孤児の女性たちに対して公正にできない恐れがあるなら、あなた方にとって適当と思われる(その他の一般の)女性たちから二人、三人または四人と結婚しなさい。でも、あなた方が(結婚する相手のかの女たちを)公平にできない恐れがあるなら、一人だけにしておくか、またはあなた方の右手が所有する人(奴隷の女性)にしなさい。これはあなた方が道を誤らないために、最も近い道なのです」(クルアーン4章3節)

この節は一般的に「男性は四人まで妻を持つことができる」と理解されてきました。しかし、この節をその部分だけで読むならば、クルアーンが本当に意図している社会的・倫理的メッセージを見失う可能性があります。特に重要なのは、この節が置かれている文脈です。4章3節は、一夫多妻そのものを論じるために独立して啓示されたのではなく、その背景には、戦争によって生じた孤児や未亡人の保護という重要な社会問題があります。当時のアラビア社会では、戦争によって多くの孤児や未亡人が生じ、孤児の財産を管理する後見人が存在していました。しかし、一部の後見人は、自分が管理する孤児女性の財産を目的として結婚し、不公正な扱いをすることがありました。

クルアーン4章2節では、孤児たちに対する財産の不正利用が厳しく戒められています。

「孤児たちに、かれらの財産を返しなさい。(自分の)悪いものを(かれらの)良いものと取り替えてはいけません。またかれらの財産をあなた方の財産として食い荒らしてはいけません。誠にそれは大きな罪なのです」(クルアーン4章2節)

この問題は、7世紀アラビア社会だけのものではありません。例えば、日本の戦後を描いた作品である『火垂るの墓』は、戦争によって家族を失った孤児がどれほど困難な状況に置かれるかを示しています。主人公である清太と節子は、空襲によって母親を失い、父親も戦争によって不在となります。その後、親族の保護を受けますが、戦争孤児が社会の中で十分に守られず、孤立していく姿が描かれています。『火垂るの墓』が示しているのは、戦争によって孤児になった子どもたちは、単に食料や住居の問題だけではなく、人間的な尊厳や温かい保護を必要としているということです。戦争孤児は、自分自身で権利を主張する力が弱く、周囲の大人や社会の倫理に大きく依存しています。

クルアーン4章3節も、まさにこのような弱い立場の人びとをどのように守るかという問題から始まっています。クルアーンは、孤児や未亡人が利用されることを許さず、彼らの権利を守ることを強く求めています。そして、その文脈の中で結婚制度についても規定し、社会的責任と公正を要求しました。

したがって、4章3節の中心テーマは、一夫多妻そのものではありません。むしろ、戦争や社会的混乱によって生まれた弱者を、社会全体がどのように保護するかという問題です。『火垂るの墓』が戦争孤児の悲劇を通して現代人に問いかけるように、クルアーン4章3節もまた、弱い立場にある人々への責任と正義を人間社会に問いかけているのです。

そこでクルアーンは、もし孤児女性に対して公正に接することができないのであれば、別の女性と結婚するように述べ、その上限を二人、三人、四人までとしました。そして最も重要な条件として、もし公平に扱えないことを恐れるならば、一人だけにしなさいと述べています。

伝統的解釈では、この節は一夫多妻を合法的に認める根拠として理解されてきました。ただし、それは無制限の男性の権利としてではなく、厳格な責任を伴う許可であるとされました。夫には妻たちに対して公平に接する義務があり、生活費、住居、時間配分などの外面的な権利について平等に扱うことが求められました。したがって、伝統的解釈においても、一夫多妻は単なる欲望のための制度ではなく、正義と責任を条件とした制度として位置づけられていました。

当時のアラビア社会では、一夫多妻婚そのものはすでに存在していました。しかし、イスラーム以前の社会では、男性が複数の女性と結婚することについて、必ずしも明確な人数制限や厳格な責任規定が存在していたわけではありませんでした。そのため、クルアーン4章3節は、一夫多妻という制度を新たに導入したというよりも、すでに存在していた慣行に対して「四人まで」という制限と倫理的条件を加えたものと理解されました。

しかし、現代のイスラーム思想家たちは、この伝統的理解に対して新たな視点を提示しています。その代表的な一人が米国シカゴ大学の教授を務めた、20世紀を代表するイスラーム思想家・クルアーン解釈学者ファズルル・ラフマーン(Fazlur Rahman、1919–1988)です。彼は著書『Major Themes of the Qur’an』において、クルアーンの社会改革を理解する際には、「法的規定(legal enactments)」と「道徳的理想(moral ideals)」を区別する必要があると論じています。つまり、クルアーンは当時の社会制度を単に承認したのではなく、現実の社会状況の中で段階的に改革する方向性を示したのです。

ファズルル・ラフマーンは、その例として奴隷制度を挙げています。クルアーンは当時存在していた奴隷制度を、一瞬にして法律によって廃止することはしませんでした。しかし、奴隷解放を奨励し、奴隷を人間として尊重し、自由へ向かう倫理的方向性を示しました。同じように、一夫多妻についても、クルアーンは当時の社会状況を考慮しながら法的には認めましたが、その条件として課した「公正」と「公平」という要求によって、より高い倫理的理想へ社会を導いたと理解できます。

クルアーン4章3節を読むと、正義に関して二つの異なるアラビア語が使われていることに気づきます。すなわち、孤児女性に対する「公正」を表す言葉として「キスト(قِسْط)」が使われ、一般の女性(妻)たちの間での「公平」を表す言葉として「アドル(عَدْل)」が使われています。

「もしあなた方が孤児の女性たちに対して公正(キスト)にできない恐れがあるなら、あなた方にとって適当と思われる(その他の一般の)女性たちから二人、三人または四人と結婚しなさい。でも、あなた方が(結婚する相手のかの女たちを)に公平(アドル)できない恐れがあるなら、一人だけにしておくか、またはあなた方の右手が所有する人(奴隷の女性)にしなさい。これはあなた方が道を誤らないために、最も近い道なのです」(クルアーン4章3節)

一見すると、この二つの要求は同じ正義を求めているように見えます。しかし、イスラーム思想においては、この二つは矛盾しているのではなく、異なる対象と責任を示していると理解できます。

まず、「公正:キスト(قِسْط)」は、特に弱い立場にある人に対して、権利を正しく与えるという意味を持ちます。つまり、4章3節における孤児女性へのキストとは、後見人が自分の利益のために孤児女性の財産や権利を侵害することなく、彼女に正当な権利を与えることを意味しています。ここでは、弱者に対する社会的正義が中心となっています。

一方、「公平:アドル(عدل)」は、複数の人々の間で均衡を保ち、偏りなく扱うことを意味します。一夫多妻婚の場合、夫が複数の妻に対して、生活費、住居、時間、待遇、心や愛情などの面で偏りなく責任を果たすことを指します。ここでは、家族内部における公平性が中心となっています。

したがって、4章3節では二つの異なるレベルの正義が示されています。第一は、社会的弱者である孤児女性に対する「キスト」であり、第二は、複数の妻を持つ場合に夫が果たすべき「アドル」です。

この二つは矛盾しているのではありません。むしろ、クルアーンは一つの節の中で、二重の責任を示しています。つまり、「弱者の権利を守ること」と「家族内で公平を実現すること」の両方を要求しているのです。

さらに重要なのは、クルアーン4章3節の論理構造です。最初に孤児女性への不正を恐れるならと述べ、その解決策として結婚の選択肢を示します。しかし、その直後に、もし妻たちを公平に扱えないことを恐れるなら、一人だけにしなさいと制限を加えています。

つまり、クルアーンは一夫多妻の許可を単純に拡大しているのではなく、二つの正義(公正と公平)の条件を同時に要求しています。孤児女性を利用してはならない。そして、複数の妻を持つならば、妻たちを不公平に扱ってはならないということです。

この観点から見ると、4章3節の中心テーマは一夫多妻の許可ではなく、「キスト」と「アドル」という二つの正義をどのように実現するかという問題であると言えます。

この解釈において特に重要なのが、クルアーン4章129節です。

あなた方は妻たちの間を公平にしようと望んでも、到底できないでしょう。偏愛に傾き、妻の一人をあいまいに(結婚と離婚の間で)放置してはいけません。あなた方が和解し(アッラーを)意識するなら、アッラーはよく赦すお方であり、慈愛深いお方なのです」(4章129節)

4章3節は、公平に扱うことができるなら複数の妻を持つことが許されると述べています。しかし、4章129節は、人間が公平を実現することはできないと述べています。この二つの節をどのように理解するかが、一夫多妻をめぐる現代的議論の中心となっています。

伝統的解釈では、クルアーン4章129節の「公平(アドル)」について、主に人間の内面的な感情、すなわち妻たちに対する愛情や心の傾きを完全に均等にすることは不可能である、と理解されました。つまり、人間の心は完全に制御できるものではなく、ある妻に対してより強い愛情を感じること自体を避けることは困難です。一方で、生活費、住居、衣服、扶養、時間配分など、外面的な待遇については公平にすることが可能であり、また夫に課せられた義務であると考えられました。したがって、伝統的解釈では、4章129節は一夫多妻を否定する根拠ではなく、人間の感情的限界を認めた上で、外面的な正義と公平を要求する節として理解されました。夫が外面的な公平を守るならば、一夫多妻は合法であると考えられたのです。

しかし、ファズルル・ラフマーンの視点から見ると、ここには重要な問題が残ります。それは、心や愛情の内面的な公平を夫個人の良心や信仰心に委ねてしまったことです。その結果、4章3節の「公平」を外面的な公平に限定してしまったことです。イスラームの人間観では、人間は完全な存在ではなく、欲望や弱さを持つ存在です。クルアーンは人間を「弱いものに創られた」(4章28節)と述べており、人間の善意や道徳心だけに依存することには限界があります。もし、一夫多妻を行う条件である「公平(アドル)」の実現を、単に夫の良心に任せるならば、権力を持つ側が自分に都合よく解釈する危険があります。特に、夫が経済的・社会的に強い立場にあり、妻が弱い立場にある場合、公平という原則が十分に守られない可能性があります。クルアーンは「人間の魂は利己的になりやすい」と述べています。

「もし妻が夫からの虐待または遺棄を恐れるなら、二人の間を調停するのは罪ではありません。和解は最もよいことです。(ただし)人間の魂は利己的になりやすいのです。もしあなた方が善行し(アッラーを)意識するなら、アッラーはあなた方の行なうことを熟知しておられます」(クルアーン4章128節)

この点が、ファズルル・ラフマーンが指摘する伝統的解釈の弱点です。伝統的解釈は法的許可と外面的条件を明確にしましたが、その制度が「現実社会においてどのような倫理的結果を生むのか」という点について、十分に発展させる余地がありました。クルアーンの目的は、単に「許可された制度を維持すること」ではありません。むしろ、人間の弱さを前提として、社会制度をより高い正義と倫理へ導くことにあります。そのため、現代的解釈では、単に夫の良心に依存するのではなく、クルアーンが示す究極的な目的―弱者の保護、公正、慈悲―を重視します。

クルアーン4章3節の「公平(アドル)」は、生活費や住居などの外面的待遇だけを意味するとは限りません。本文自体は「アドル」を外面的公平と内面的公平に区別していません。また、アリーが第二の妻との結婚を望んだ際、預言者 ﷺ がファーティマの心情を深く配慮されたハディースも踏まえるならば、4章3節の「公平」は、物質的待遇だけでなく、妻の心情や人格的尊厳を含む包括的な公平を意味すると理解する方が整合性があります。

「ミスワル・イブン・マフラマは次のように伝えました。アリー・イブン・アビー・ターリブが、ファーティマとは別に、アブー・ジャフルの娘ジュワイリーヤとの結婚を求めた時のことです。私は、預言者ムハンマドが説教壇の上で、この件について人々に向けて語られるのを聞きました。その時、私はすでに成人していました。預言者は言われました。ファーティマは私の一部である。私は、彼女がその宗教において試練(嫉妬などの精神的苦痛)を受けることを恐れている。その後、預言者は、ご自身の婿であるアブー・アル=アース・イブン・アッ=ラビーについて言及されました。彼はアブド・シャムス族の人物であり、預言者は彼を良い婿として称賛されました。彼が語ったことは真実であり、彼は私との約束を守った。そして預言者は言われました。私は、アッラーが合法とされたものを違法にすることも、アッラーが違法とされたものを合法にすることもしない。しかし、アッラーに誓って、アッラーの使徒の娘と、アッラーの敵(すなわちアブー・ジャフル)の娘が、一人の男性の妻として同時に存在することは決してない」(サヒーフ・アル=ブハーリー 3110)

ここでいう宗教における試練とは、単なる嫉妬だけを意味するものではありません。多くの学者は、信仰生活に影響を与えるほどの精神的・家庭的な苦難を意味すると説明しています。具体的には、以下のような意味が含まれます。

第一に、ファーティマの心の苦痛です。夫であるアリーが、自分の父である預言者ムハンマドを激しく敵対したアブー・ジャフルの娘と結婚することは、ファーティマにとって大きな精神的負担になる可能性がありました。これは単なる妻としての嫉妬ではありません。父を迫害した人物の家族との関係、預言者の娘としての感情、家庭内の葛藤が重なることになります。

第二に、家庭の平和が失われる危険です。イスラームにおいて結婚は、単なる男女関係ではなく、信仰を支える家庭を築くためのものです。もしアリーの再婚によって、ファーティマが深く悲しむこと、夫婦関係が悪化すること、家庭内に争いが生じること、信仰生活に集中できなくなることが起こるなら、それは宗教における大きな試練となります。

第三に、ファーティマの尊厳への配慮です。預言者ムハンマドは「ファーティマは私の一部である」と言われました。これは単なる父親としての愛情表現ではありません。娘ファーティマの苦痛を、預言者自身の苦痛として感じていることを示しています。

つまり、イスラームでは、合法とされている行為であっても、他者の尊厳を深く傷つけ、家庭の調和を破壊する場合には、慎重な判断が求められるということです。このハディースは、クルアーン4章3節の「公平にできないことを恐れるなら、一人だけにしなさい」という言葉を理解する上でも重要です。伝統的解釈では、この公平とは主に、生活費、住居、時間配分、外面的な待遇などを指すと理解されてきました。しかし、このハディースを見ると、預言者ムハンマドは、物質的な平等だけではなく、配偶者の感情、精神的安定、家庭の調和、信仰への影響も重要な要素として考慮されていたことが分かります。この点は、クルアーン4章3節における公平とは、単なる外面的な平等だけではなく、人間の心、尊厳、家庭の調和を含む広い意味での正義であることを示しています。

だから、現代的解釈では、4章129節をより重視します。そして、クルアーンの倫理的方向性は、一夫多妻を拡大することではなく、公正と公平を追求する結果として、一夫一妻を理想とする方向へ向かっていると考えます。つまり、より正確には、「女性の権利を守る公正(キスト)は実現可能であり、また義務である。妻たちへの外面的な公平(アドル)も実現しなければならない。しかし、人間の心の中の感情まで完全に均等にする内面的な公平(アドル)は不可能である」→「(外面的・内面的に)公平にできない恐れがあるなら、一人だけにしておく」(4章3節)という理解になります。

では、なぜクルアーンは一夫多妻を最終的に禁止しなかったのでしょうか。この問いを理解するためには、クルアーンの社会改革の方法を見る必要があります。クルアーンは、社会に存在する制度を現実から切り離して突然廃止するのではなく、人間社会の状況を考慮しながら、より正義と倫理に基づいた方向へ導く方法を取りました。当時のアラビア社会では、戦争による未亡人や孤児の保護、部族社会における扶養制度など、一夫多妻が一定の社会的役割を果たしていた側面もありました。そのため、単純な禁止よりも、まず弱い立場の人々を守り、公正と責任を要求することで社会を改革する道を選んだと理解できます。

第一に、戦争や紛争によって生じる未亡人や孤児の問題は、7世紀のアラビア社会だけの問題ではありません。現代においても、世界各地で戦争や紛争は続いており、多くの女性や子どもたちが夫や父親を失っています。そのような状況において、未亡人や孤児を社会の中でどのように保護するかという問題は、現在でも存在しています。したがって、一夫多妻は単なる男性の欲望を満たす制度としてではなく、歴史的には社会的弱者を扶養する一つの仕組みとして機能してきた側面もありました。

第二に、すでに一夫多妻によって形成されている家族を、法律によって突然解体することは、新たな社会的混乱を引き起こす可能性があります。複数の妻や子どもが存在する家庭に対して、制度を突然禁止し、家族関係を破壊することは、特に女性や子どもたちに大きな不利益を与える可能性があります。そのため、クルアーンは一夫多妻を全面的に廃止するのではなく、まずその制度の中に公正という厳しい条件を導入し、弱い立場の人々の権利を守る方向へ改革しました。

この点は、奴隷制度に対するクルアーンの対応とも類似しています。クルアーンは奴隷制度を一瞬にして法律で廃止することはしませんでしたが、奴隷解放を奨励し、人間の尊厳と自由という価値を社会に浸透させました。現在でもザカートを受け取る権利がある人に「奴隷(の解放)」があります。したがって、クルアーンが一夫多妻を直接的に禁止しなかった理由は、それを理想的な制度として推奨したからではありません。むしろ、現実社会に存在する問題に対応しながら、女性や孤児など弱い立場の人々を守り、正義と責任に基づく社会へ導くためであったと理解できます。

ファズルル・ラフマーンの結論は、伝統的解釈と現代的解釈の中間に位置しています。彼によれば、一夫多妻婚の許可は「法的次元」に存在しました。しかし、その許可に課された制限、特に公正と公平の要求は、社会が向かうべき「道徳的理想」を示しています。つまり、許可されているから理想であるのではありません。歴史的状況の中で許可された制度を、高い倫理的基準へ導いていると理解するのです。

伝統的解釈は、クルアーン4章3節を、厳格な条件を伴う法的許可として理解してきました。一方、現代的解釈は、その背後に存在するクルアーンの倫理的目的や社会改革の方向性を重視しています。両者の違いは、クルアーンを主として法的規定の書として読むのか、それとも歴史的状況の中で正義と倫理を実現するための導きとして読むのかという、解釈方法の違いにあります。しかし、どちらの解釈においても、クルアーン4章3節の中心的テーマを、単純に「男性は四人まで妻を持つことができる」という許可の問題だけに限定することはできません。

この節の本質は、戦争や社会的弱者によって生じた孤児や女性など、保護を必要とする人びとの権利を守り、婚姻関係において外面的かつ内面的な公正(キスト)と公平(アドル)を実現することにあります。つまり、クルアーン4章3節が示している究極的なメッセージは、一夫多妻の人数の規定ではなく、人間の弱さを認識した上で、社会的弱者に対する正義、責任、慈愛をどのように実現するかという普遍的な倫理原則なのです。

【著:杉本恭一郎(千葉イスラーム文化センター理事長)】


クルアーンやさしい和訳を無料配布します:https://forms.gle/6uS28x5KWSQoWGmy9