日本から6人の高校生と大学生をマレーシアに招待して文化交流プログラム(日程:2025年8月1日〜2025年8月10日)を実施しました!今年はマレーシア国立イスラーム科学大学との初コラボ。プログラムタイトルをCREATE(Cultural Recognition and Exchange through Active Transformative Engagement:積極的な変革的関与を通じた文化的認識と交流)としました。つまり日本人とマレーシア人がそれぞれ積極的に知り合いになることで自らの考え方に変革が生まれ、それが異文化の認識と交流を促進するものになると言うことです。これはクルアーン49章13節の言葉「人びとよ、われらはひとりの男とひとりの女からあなた方を創り、様々な種族と部族に分けました。それはあなた方が、互いに知り合いになるためです」と関係しています。異文化は「お互いを知る」ということから始めます。異文化を知るときの態度や見方が重要になります。なぜなら人はこれまでの自分の伝統や文化や経験の「色眼鏡」を持って異文化を見るからです。これが偏ることを偏見と言います。異なる民族や部族がお互いに自分の文化が最も優れていると文化的認識に優劣をつけるとどうなるか?排外主義になっていきます。社会的心理的な分断を引き起こします。文化には「両義性」(山口昌男:1975)があるのに、自分の中心的文化が優れていて、周縁の文化は劣っていると思いがちだからです。文化の両義性は、自文化中心主義(自文化が優れているとする考え方)とは対照的です。自文化中心主義は、自文化を基準に他文化を評価し、周縁の文化を軽視する傾向があります。文化の両義性を理解することで、自文化中心主義に陥ることなく、多様な文化を尊重する視点を持つことができます。文化相対主義とは、それぞれの文化は独自の価値観や規範を持ち、優劣をつけることはできないとする考え方です。文化の両義性を理解することで、中心的な文化だけでなく、周縁の文化にも目を向け、それぞれの文化が持つ価値を尊重することが重要になります。一方で文化的相対主義にも問いかけがあります。それぞれの文化が相対的に独自の文化的な価値を有していて、優劣を決められないとしても、どのように異文化を持つ人が積極的に協力・共生していけるのか?異なる文化を超える普遍的な要素はないのか?私たちは日本人やマレーシア人である前に人間です。人間として生まれてきたので人間の文化、人間としての生き方が、異文化を越える要素となります。では私たちはどのように人間としての生き方(人間の本分)を知ることができるのでしょうか?結局のところ人間にはわかりません。なぜなら人間は人間を作っていないので、そもそも人間がなぜいるのか?本源的な理由や目的がわからないのです。例えば、人間は携帯電話を作りました。だから携帯電話が存在する本源的な理由や目的を明確に知っています。それは通信・通話するためです。他に理由はありません。同様に考えると、人間を創った存在があれば、人間の生きる本分を知っているのではないでしょうか。その存在をアラビア語では「創造主」「アッラー」といいます。創造主アッラーは人間を創ったので人間の生きる本分を明確に知っているはずです。それがまとめて記されているのがクルアーン(「全人類の憲法」)です。だから先述した49章13節には続きがあって「アッラーの御元で最も貴い人は、あなた方の中、最も(アッラーを)意識する人です」と記されています。人間としての生きる本分(目的)についての詳細の説明は『クルアーンやさしい和訳』601頁から説明があります。

スキマ時間で学ぶ大人のイスラーム講座:

申請フォームはこちら☞ https://forms.gle/jA4sKzTaJbhz4K637

クルアーンやさしい和訳を無料配布します:https://forms.gle/6uS28x5KWSQoWGmy9

Amazonでも購入可能です:www.amazon.co.jp/dp/4336063389